ふたりの友人ががんになりました。
ひとりはある程度の治療の目処がついてから、
「今こんな状況で、これからこんな治療をするんだけど、がんの先輩がいるから安心して治療します。」と前向きな文章での連絡。
でも実際は極めて大変な状況と判断しました。
もうひとりは、
「今がんと診断された。そうしたらいいんだろう。セカンドオピニオンは?治療法は?どうしらいい?」切羽詰まっての連絡。
どちらもあの頃のワタシと重なる部分があります。
最初にがんと診断された時は呆然としつつも「まぁふたりに一人だからね。仕方ないのかな。」なんて思いながら、その時偶然にも電話をくれた友人に
「たった今がんて言われた。ハハハハハ、どうしよう。」
きっと少し取り乱していたのかな?
自分では凄く冷静だったと思うのだけれども。
その後、四つ目の病院での治療や手術が決まってから腹を括った感がある。
家族にも冷静に、いやいつもより明るく前向きな自分を見せつつ準備をしていった。
恐れなどないフリをして家族を安心させる態度で。
手術日の早朝、まだ家族が来る前の病院内の談話室で、築地の街を見下ろしていたらおばあさんが声をかけてくれた。「おはよう」って。
なんとなく
「ワタシ、いまからがんの手術をするんです。」って言いながら泣いてた。
初めて会う人に、だれもいない談話室で、きっとがんの先輩なんだと思ったのか、
それとも、見ず知らずの人にこそ本音を話したかったのか・・・。
そのおばあさんは優しく、「大丈夫よ。」って言ってくれた。
がんになるとみんなの目が、言葉が、どうしても胸に刺さる。
いい意味でも悪い意味でも深いところをえぐるように刺す。
有難い言葉をもらうと、自己嫌悪になり今までの自分を否定したりする。
頑張ってとか、大丈夫とか当たり障りのない言葉に、勇気をもらいながらも、「何もわかってない!」と反抗的な気分になったりもする。そしてそんな自分をまた軽蔑する。
自分の存在と、そこに浮き上がる気持ち悪さのスパイラルに陥る。
自分で勝手にそのスパイラルに入り込み、まわりが見えない状態にしてしまう。
そんなワタシを見て、明るく振る舞ってるフリをするワタシを見て、まわりは戸惑う。
必要なものは絞り出した言葉ではない。と、思う。
側に寄り添う事。
「何かあればいつでも側にいるよ」と言う安心感だけを与える勇気を持つ事。
きっとそれだけでいい。
がんと打ち明けられたときに、絶対側にいる見方だよ、と言う強い意思表示。
そしてそれは途切れなく、たまにでいいので相手に対して意思表示を続ける事。
守られていると言う優しさを与えてください。
ワタシたちは何故か敏感になっていて、人の心がいつもより見えてしまうんです。
わがままになっているかも知れないけれど、見つめ続けてください。
「わたし、ここにいるから安心して。」って見つめていてください。
それがワタシたちの救いにもなります。
あの頃を思い出しながら、友だちに寄り添いたいと思う。